2011/12
フランツ・フォン・シーボルト君川 治


[我が国近代化に貢献した外国人12]


 シーボルト記念館は幕末の蘭学者たちに多くの影響を与えたシーボルトを顕彰するために、鳴滝塾のあった場所に平成元年、長崎市によって設立された。
 記念館の隣、居宅跡はシーボルトが好んだアジサイ庭園となっており、シーボルトの胸像が建っている。シーボルトはアジサイを学名Otakusa(オタクサ)と命名しているが、これは日本人妻お瀧さんに因んだものだ。アジサイは長崎市の市花である。
 シーボルトは既に「長崎への遊学者たち」「シーボルトと弟子たち」に登場しているが、外国人シリーズでは忘れることのできない影響力の大きい人物である。
 日本に最初のオランダ商館が平戸にできたのは1609年で、初代商館長はヤックス・スペックスであった。1641年、第8代商館長フランソワ・カロンの時に長崎出島に移転した。これから幕末に和親条約を締結して公使館ができるまで約220年間、159代のドンケル・クルチウスまで続いた。この間、オランダ商館に駐在した医師は63人で、商館員の診察と治療、限定的に長崎奉行が許可した日本人患者の診察、さらに日本人医師との交流を役割としていた。
 商館医は皆長崎の通詞や医師たちに大きな影響力を持っていたが、代表的な商館医を挙げると、カスパル流外科のカスパル・シャムベルゲル(1603−1704)、「日本誌」の著者エンゲルベルト・ケンペル(1651−1716)、スウェーデンの植物学者カール・B・ツンベルク(1743−1828)、シーボルト、ポンペ、我が国の種痘導入を成功させたオットー・モーニッケ(1814−1837)、ポンペの後任者ボードウイン(1820−1885)などであろう。


シーボルトの略歴
 シーボルトは1796年にドイツで生まれた。シーボルトの家系は医学者や大学教授が多い。祖父はベルツブルグ大学解剖学・外科・産科教授、ベルリン大学外科学教授、父はベルツブルグ大学生理学教授、伯父2人もベルツブルグ大学医学部教授、従兄弟2人もミュンヘン大学生理学教授、マールブルグ大学産科学教授であった。このような環境の中でシーボルトもベルツブルグ大学で病理学・解剖学・生理学・産科学を学び、生化学・薬理学・植物学、更には自然科学一般、地理学・民俗学などを学んだ。
 シーボルトは東洋への関心が強く、オランダ東インド会社に応募してバタビアに行き、日本の商館医兼自然調査官の資格で長崎にやってきた。シーボルトは医師として、医学教育者として際立っていることが認められて、オランダ通詞の吉雄家や楢林家に出張診療を認められ、更には鳴滝の地に塾を設けて診療と医師教育を許可された。
 シーボルトは啓蒙的、ポンペは専門的などと云われるが、二人とも臨床的な医学を我が国の医師たちに指導している。しかし、シーボルトは医学以外にも植物学・動物学・地理学などその及ぶ範囲が驚くほど広い。シーボルトの業績は、教育と啓蒙である。

直接指導を受けた人達
 鳴滝でシーボルトが医学塾を始めると、全国から教えを乞う生徒が集まってきた。近くの佐賀藩からは藩医楢林宗建をはじめとして伊東玄朴、大石良英、大庭雪斎が指導を受け、伊東玄朴は幕府の奥医師となり、江戸蘭学医の中心となってお玉が池種痘所を開設する。徳島の高良斉、宇和島の二宮敬作はシーボルトの信任厚く江戸参府に同行し、シーボルトが帰国した後も“娘イネ“の教育を任される。一関の高野長英は塾頭をつとめるキレ者、シーボルト事件に巻き込まれ、その後蛮社の獄で投獄されるが脱獄して全国を逃亡しながらも、多くの支援者たちに影響を与え続けた。
 掛川の戸塚静海は江戸三大医家の一人に成長する。その他にも阿波の美馬順三、岡山の石井宗謙、岩国の岡研介、甲州の湊長安、冨山の黒川良安、美濃の伊藤圭介など全国の俊秀たちが鳴滝塾で学んだ。

シーボルトの江戸参府
 オランダ商館長は最初の頃は毎年江戸参府していたが、その後隔年となり、寛政2年(1790)からは5年に1回となった。参府する人数も当初は大名行列並みと云われたが、その後同伴者は主事・書記・医師の3名に制限された。
 シーボルトは江戸参府同行の機会に恵まれ、色々と理屈をつけ細工を凝らして同行の人数を増やしている。研究補助として門人高良斉を同行し、門人二宮敬作や画家川原登与助は通詞の従僕として加えた。
 江戸参府は長崎から55日かけて陸路を通って江戸に着き、江戸滞在は37日間、帰りは神戸から船で小倉まで行き、長崎街道と通り、出発から147日の大旅行で長崎へ帰っている。
 シーボルトが江戸参府した際、道中および江戸にて面会して影響を受けた人たちも多くいる。幕府天文方の高橋景保、北方探検家の最上徳内や間宮林蔵は地理や地図情報を交換した。幕府の蘭学医桂川甫賢、甫周、津山藩の宇田川榕庵、箕作阮甫、仙台藩の大槻玄沢なども宿舎長崎屋で何回も面談している。
 諸国の蘭癖大名といわれる人たち、島津重豪、島津斉彬、奥平昌高(中津藩)、黒田斉清、斉溥(筑前)なども海外情報入手のため面談している。
 江戸参府日記を読むと、道中で色々な事に興味を抱く様子が分かる。途中で植物採集や動物・鉱物の採集をして標本作りをしている。佐賀では陶器の製造、茶の栽培、瀬戸内海では製塩事業、静岡では製紙業、竹細工を観察し、富士山を見て測量をしている。その他、大阪の都市の繁盛、京都の街の整然としたさまに感心し、美術工芸品を激賞している。京都では書店で地図や地理学参考書を購入している。さらに医者として滋賀の草津では神護丸、万金丹を購入している。
 献上品として選んで持参した品物は科学者シーボルトを示すものだ。医療用具のほか、晴雨計、測高計、検湿器、寒暖計、顕微鏡、時辰儀(携帯用機械時計)、セキスタント(六分儀)などであった。
 出島と鳴滝の往復以外、外出が制限されていたシーボルトがどのようにして植物や動物の標本、更には書籍、絵画、民俗学資料を集めたのか、それは日本の門弟たちの協力であった。全国各地からシーボルトに憧れて門弟が集まり、資料収集に協力したのはシーボルトの博識と人を惹きつける人物の魅力であろう。当時の医学では薬は薬草に頼る部分が多く、医者は本草学に詳しいのでこの点からもシーボルトに協力する者が多かったことが推測される。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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